脳停止そして結局な日常
篠田外科は病院としては小規模で、1階が内科と外科の外来で2階が病室(女1、男1)になっていた。
階段を上がってすぐの病室のネームプレートに「上田」の名前があった。中をのぞくと8台(8床?)くらいベッドがあって、患者たちがベッド上であぐらをかきーの、椅子に腰かけーの、はたまた窓際に立って腰に両手をあてーのと、それぞれの格好をしていた。
左奥を見ると、唯一、まわりをグルっとカーテンで閉め切ったままのベッドがあった。たぶんバアサンだ。でもオレは、そこに直行するようなギャンブラーではない。
「あのすみません、上田さんは……(うわっ、我ながら、声、小っちゃ)」
誰に向かってというんじゃなく、病室内へと声をかけた。
ドアに一番近いベッドの上であぐらをかいている色黒のおばさんがこっちを向いた。
「はあ? お見舞い? 誰?」
病室のみんながいっせいにこちらを見た。
「あの、上田さん……」
オレの口から上田という名前が出たとたん、みんなの目がキラキラし出した。ちょっとイヤな感じのキラキラ。
「上田のオバアチャ~ン、お見舞いの人だよ」
色黒の声はデカかった。
いい感じのタイミングで、ベッドを覆ったカーテンからバアサンが顔を出した。
ウワっ! いつもの渋い顔だ。
でも、オレの顔を見ると、バアサンの顔中のシワというシワがちょっとずつ形を変えて、すげー嬉しそうな表情になった。すぐにカーテンをはねのけてベッドから下り、スリッパを履いている。もう、ぜんぜん歩けるみたいだ。
よしよしというような感じで顔を小刻みに上下させながらこちらに歩き出したバアサンの顔は、口は笑いをかみ殺している感じだが、目のまわりは喜び大爆発だ。不機嫌な顔をされるのもイヤだけど、こんなに嬉しそうな顔をされたら、それはそれで怖い。
病室のみんなが口の片方だけで笑顔を作り、バアサンとオレを交互に見る。
「来てくれたんだぁ」
とバアサンが、オレの腕に軽くさわり、オレを見上げながら言った。さっきまでぎゅっと閉めていた口がちょっと開いて、歯茎が見える。わちゃ~、怖いよ~。
それからバアサンはまたよしよしというように首を上下に何度か振ってから、まじめな顔になって病室のみんなのほうに向き直った。
そして、口を開いた。
「みなさん……」
ちょっと改まった感じ……なんかイヤな、すんげーイヤな予感。
バアサンは、オレのほうをちょっと見てからまたみんなのほうに向き直った。
なんだなんだ、何が起きるんだ?
バアサンが、きっぱりとした口調で言った。
「息子です」
むむむむむむむ、むすこーーーー!
左脳の働きが停止した。
右脳は、傍観モードに入っているのか、目から入る情報を受け入れるのみ。
こんなときに頼りになるのは脊髄反射だけだ。
オレは機械的に病室を見わたした。
そして機械的に、
オレは、
オレは、
頭を深々と下げていた。
前略 オフクロ様
あなたの息子に新しいおかあさんができました。
って、なんだよもう。
事件から3カ月とちょっとして、バアサンが退院してきた。一瞬にして松原荘は、佐藤(弟)がいないことを除くと、バアサンが刺される前の状態に戻ってしまった。バアサンは、「あのとき見舞いにきてくれてありがとうね」と感謝してくれたが、病室でオレを「息子」と紹介した件については触れなかった。オレも何も言わなかった。さすがに、日立製作所に勤める息子の話はしなくなったが、それもちょっとの間のことだった。
佐藤(兄)は、特別バツが悪そうな態度を見せることもなく、バアサンと接していた。
それどころか、1年後くらいには、松原荘は完全に事件前の状態に戻っていた。
完全に!
バアサンはオレをつかまえては、ほかの住人の悪口を言う。佐藤(弟)の悪口も言う。その横を佐藤(弟)が通り過ぎていく。
そうなのです。佐藤(弟)が出所して、事件前と同じように佐藤(兄)の部屋で暮らし始めたのです。
なんか、みんな、すげーな。
篠田外科は病院としては小規模で、1階が内科と外科の外来で2階が病室(女1、男1)になっていた。
階段を上がってすぐの病室のネームプレートに「上田」の名前があった。中をのぞくと8台(8床?)くらいベッドがあって、患者たちがベッド上であぐらをかきーの、椅子に腰かけーの、はたまた窓際に立って腰に両手をあてーのと、それぞれの格好をしていた。
左奥を見ると、唯一、まわりをグルっとカーテンで閉め切ったままのベッドがあった。たぶんバアサンだ。でもオレは、そこに直行するようなギャンブラーではない。
「あのすみません、上田さんは……(うわっ、我ながら、声、小っちゃ)」
誰に向かってというんじゃなく、病室内へと声をかけた。
ドアに一番近いベッドの上であぐらをかいている色黒のおばさんがこっちを向いた。
「はあ? お見舞い? 誰?」
病室のみんながいっせいにこちらを見た。
「あの、上田さん……」
オレの口から上田という名前が出たとたん、みんなの目がキラキラし出した。ちょっとイヤな感じのキラキラ。
「上田のオバアチャ~ン、お見舞いの人だよ」
色黒の声はデカかった。
いい感じのタイミングで、ベッドを覆ったカーテンからバアサンが顔を出した。
ウワっ! いつもの渋い顔だ。
でも、オレの顔を見ると、バアサンの顔中のシワというシワがちょっとずつ形を変えて、すげー嬉しそうな表情になった。すぐにカーテンをはねのけてベッドから下り、スリッパを履いている。もう、ぜんぜん歩けるみたいだ。
よしよしというような感じで顔を小刻みに上下させながらこちらに歩き出したバアサンの顔は、口は笑いをかみ殺している感じだが、目のまわりは喜び大爆発だ。不機嫌な顔をされるのもイヤだけど、こんなに嬉しそうな顔をされたら、それはそれで怖い。
病室のみんなが口の片方だけで笑顔を作り、バアサンとオレを交互に見る。
「来てくれたんだぁ」
とバアサンが、オレの腕に軽くさわり、オレを見上げながら言った。さっきまでぎゅっと閉めていた口がちょっと開いて、歯茎が見える。わちゃ~、怖いよ~。
それからバアサンはまたよしよしというように首を上下に何度か振ってから、まじめな顔になって病室のみんなのほうに向き直った。
そして、口を開いた。
「みなさん……」
ちょっと改まった感じ……なんかイヤな、すんげーイヤな予感。
バアサンは、オレのほうをちょっと見てからまたみんなのほうに向き直った。
なんだなんだ、何が起きるんだ?
バアサンが、きっぱりとした口調で言った。
「息子です」
むむむむむむむ、むすこーーーー!
左脳の働きが停止した。
右脳は、傍観モードに入っているのか、目から入る情報を受け入れるのみ。
こんなときに頼りになるのは脊髄反射だけだ。
オレは機械的に病室を見わたした。
そして機械的に、
オレは、
オレは、
頭を深々と下げていた。
前略 オフクロ様
あなたの息子に新しいおかあさんができました。
って、なんだよもう。
◯ ◯ ◯
事件から3カ月とちょっとして、バアサンが退院してきた。一瞬にして松原荘は、佐藤(弟)がいないことを除くと、バアサンが刺される前の状態に戻ってしまった。バアサンは、「あのとき見舞いにきてくれてありがとうね」と感謝してくれたが、病室でオレを「息子」と紹介した件については触れなかった。オレも何も言わなかった。さすがに、日立製作所に勤める息子の話はしなくなったが、それもちょっとの間のことだった。
佐藤(兄)は、特別バツが悪そうな態度を見せることもなく、バアサンと接していた。
それどころか、1年後くらいには、松原荘は完全に事件前の状態に戻っていた。
完全に!
バアサンはオレをつかまえては、ほかの住人の悪口を言う。佐藤(弟)の悪口も言う。その横を佐藤(弟)が通り過ぎていく。
そうなのです。佐藤(弟)が出所して、事件前と同じように佐藤(兄)の部屋で暮らし始めたのです。
なんか、みんな、すげーな。
おわり
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