2013年8月1日木曜日

七五調の馬鹿12

近代以降その2
おろかなり阿呆烏あはうからすの啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 旅と酒と女を愛した自然主義派の歌人、若山牧水(わかやまぼくすい)(1885~1928年)の第二歌集「独り歌へる」(『日本の詩歌 4』伊藤信吉・伊藤整・井上靖・山本健吉編/中央公論社)より。この歌集が刊行されたころ、牧水は胸を病んだり、好きだった女性と別れたり、また別の女性に恋したり、さらに後に妻となる女性と会ったりと、いろいろと忙しかったようだ。ちなみにこの阿呆烏は"あほう"と啼くカラスのことだが、池波正太郎の短編小説「あほうがらす」によると江戸時代には、今でいうポン引き(事務所や専属の女性スタッフを抱えないフリーランスの売春斡旋人)のことを「あほうがらす」と呼んだそうだ。
選者やめぬならと責め来るに返しやる何をぬかすかこの馬鹿野郎
 アララギ派の歌人、土屋文明(つちやぶんめい)(1890~1990年)が昭和37年に詠んだ歌を収めた歌集「続青南集」(『現代短歌大系2』大岡信・塚本邦雄・中井英夫編/三一書房)より。昭和5年に斉藤茂吉から短歌雑誌「アララギ」の編集兼発行人を引き継ぎ、戦争による中断を挟んで昭和20年に「アララギ」を復刊させた土屋文明は、その後も短歌の選者として、また歌人として活躍。この歌を詠んだ当時、土屋文明は70歳を越えていた。それにしても、元気だ。とはいえこの年、心筋梗塞を発病し選者を辞している。
秋三月馬鹿を尽して別れけり
 正岡子規(まさおかしき)(1867~1902年)が明治18年から29年にかけて詠んだ俳句の中から自ら選んで編んだ句集、「寒山楽木(かんざんらくぼく)」(『日本詩人全集2』山本健吉・加藤楸邨編/新潮社)より。この句を詠んだ明治28年の8~10月の足掛け三月(みつき)の間、子規は結核の療養もかねて郷里の松山で過ごした。句に「碌堂と戯る」との前置きがあるところを見ると、松山中学時代からの旧友、柳原極堂(旧号碌堂)と、昔に返ってあれこれ遊んだのだろう(極堂は明治30年に松山で俳誌「ホトトギス」を始めている)。ちなみにこの年の10月、奈良を経て東京に戻るときに詠んだのが「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」なのさ。
馬鹿ほして梅のつぼみもかたきころ
 籾山梓月(もみやましげつ)(1878~1958年)の句集、「冬鶯」(『現代俳句大系 第二巻』富安風生・水原秋櫻子・山本健吉監修/角川書店)より。大正9年に詠まれた俳句で、「深川」という題がついている。深川といえば、アサリを煮た汁をぶっかけて食う「深川丼」でも知られる土地。昔は水産物の加工も盛んに行われていただろう。ということで、この馬鹿は人の馬鹿ではなく、馬鹿貝のこと。馬鹿貝とはなんとも乱暴な名前だが、これでもれっきとした標準和名。「青柳」のほうが通称だ。
初出:2008年6月23日

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