2013年8月31日土曜日

標語流行語キャッチフレーズ発掘その11

「防諜」の標語(昭和13年/千葉県防諜協会)
咲いた話に 軍機が洩れる
寸評◎なんかほのぼの。勝てる気がしない。
参考資料:『標語・スローガンの事典』(祖田浩一編/東京堂出版/1999年)
初出:2010年6月12日

2013年8月29日木曜日

七五調の馬鹿14

近代以降その4
四月馬鹿ローマにありて遊びけり
 みちのく岩手は盛岡生まれ盛岡育ちの随筆家で俳人、山口青邨(1892~1988年)の句集「雪国」(『現代俳句大系 第五巻』富安風生・水原秋櫻子・山本健吉監修/角川書店)から、昭和13年に詠まれた句。青邨の句にはみちのくを詠んだものが多い。その情景は、南国の人にとってはさびしくきびしそうに映るだろう。この「四月馬鹿~」の句にはそういった自然描写はなく、ヨーロッパでちょいとはしゃいだ気分になっている様子がうかがえる。ちなみに「青邨」は「せいとん」ではなく「せいそん」と読む。筆者も盛岡の出身で、というか、盛岡の出身だが、パソコンに「とん」と入力して漢字変換を試みる、ごく普通の初老ライターだったりもするわけである。
地獄痣なく老いにけり四月馬鹿
 高浜虚子に師事し、生涯写生にこだわった女流俳人、阿部みどり女(じょ)(1886~1980年)の「雪嶺」に収められた句。「地獄痣」は老人性のしみのことだろう。夫や息子、娘を亡くし、本人も大病を患ったりと、大変な人生だったようだが、『現代俳句大系 第六巻』(角川書店)の野沢節子さんの解説には、「『地獄痣』のこの明るさは、八十年のみどり女の逆縁を貫き、俳句に賭けた境涯の至り得た明るさであろう」とある。
四月馬鹿のんしやらんすの咄せり
 昭和22年に発行された下村槐太(しもむらかいた)(1910~1966年)の句集「光背」(『現代俳句大系 第六巻』富安風生・水原秋櫻子・山本健吉監修/角川書店)より。「のんしゃらん」(nonchalant)は、無頓着な様子を表すフランス語だが、生活はシビアに貧乏だったようだ。そんなわけで、句集「光背」は謄写版刷り(鉄筆で原紙にガリガリ字を書く、あの「ガリ版刷り」)。
初出:2008年7月18日

2013年8月28日水曜日

ダジャレにひと言28 びっくりした顔

お題:ダジャレにひと言足して、なんか悲しいダジャレを作ってください。悲しくなくてもいいですし。
うわっ、どうしたの!? そんなざっくりした顔して
親に聞いてくれ!
びっくりした顔なのは平山あやちゃん。
初出:2012年6月8日

2013年8月27日火曜日

東京ドメスティック日常編 2

大型ゴキブリは外からやって来る

 オレの学生時代(1970年代後半)、ゴキブリ対策といえば粘着シートのゴキブリホイホイが主流だった。夏休みに1カ月ほど帰省したのちに東京に戻ってくると、大小とりまぜて50匹くらいのゴキブリが粘着シートに引っ付いていた。あんまり数が多いから、ちょっと感動した。大型のゴキブリはその状態でも生きていて、触覚をヒコヒコ動かしていた。
 50匹のゴキブリを収容したゴキブリホイホイにはもう足の踏み場はない。捨てるしかないけど、なんか面倒くさくてそのまま部屋に置いておいた。で、酔っ払って帰宅してはゴキブリ満載の粘着シートを踏んづけ、次の朝にはゴキブリホイホイを元通り成型するってことを何度も繰り返していた。捨てちゃえばいいのに。ほかのゴミはきちんと捨てているのに。ゴミ集積所は、アパート(松原荘)の玄関を開け2歩あるいて木戸を開けたら2メートル右の電柱のところだから、パンツ一丁だってゴミ出しできたのに。

 今現在住んでいるところ(京王線代田橋駅から徒歩1分の6畳ひと間)も、ごく近くにゴミ集積所がある。ごく近くというか、アパートの敷地の一角がゴミ集積所になっている。オレが住んでる201号室は道路の反対側にあるが、道路に面した203号室だったら、窓からゴミ袋を放り投げればいい。
 オレはなぜか、ゴミ集積所にだけは恵まれている。ただそのゴミ集積所には、まだまだ寒い3月くらいからデカい黒ゴキブリがチラホラ出没し始め、夏の盛りともなると通りかかるたびに黒光りした姿を見かけるほどになるのである。

 そんなわけで、部屋に住みついた中・小型のゴキブリは駆除できても、夏になるとデカい黒ゴキブリがときどきオレの部屋にやって来るんだよね。
 侵入経路は、全開にした窓か、上下に7、8ミリほど隙間のあるドア。
 全開にした窓の1.5メートルほど先には大家さんちの壁があり、よくそこに黒ゴキブリがへばりついている。この場合、輪ゴムを指に引っ掛けて飛ばし、追っ払う。窓から体を乗り出し、できるだけゴキブリに近づいて狙うので、命中とはいかないまでもけっこう近くに着弾する。危険を感じたゴキブリが50センチほど移動したら、また同じ攻撃を繰り返す。輪ゴムがもったいないので、最終的には傘で突っついて追っ払う。
 なんか気配を感じて目をやったら窓の下枠に乗っかったゴキブリが触覚を動かしていたこともあった。このときはバタバタ大騒ぎしてなんとか外へ追っ払った。
 夏の間、豪雨のとき以外は窓を開けっ放しにしているので、オレが気づかないうちにゴキブリは入り込んで、オレに知られることなく部屋から出て行ってるんだろう。


 ゴキブリはドアの下の隙間からも侵入してくる。
 夜遅く、そろそろ寝ようかと明かりを消して布団に横になる。
 と、ドアのあたりになんか気配。
 7、8ミリほど開いたドアの下の隙間を見ると、廊下の明かりをバックに恐怖のシルエット。
 うわっ、ゴキブリだ!
 黒い侵入者は、部屋の中の様子をうかがうように触覚をうごめかす。
 対応をあやまると、部屋への侵入を許すことになる。
 布団に寝たまま新聞紙をドアに投げつける、というのが最も簡単な対応だが、ドアに衝撃を与えた瞬間にゴキブリが暗い部屋の中に逃げ込む確率が高い。
 そこでオレは起き上がって部屋の明かりを点け、新聞紙を棒状に丸めてドアに近づく。
 体勢は、いざというときにすぐに動けるように中腰。
 ヤツがいたあたりを狙って、新聞紙をバシっと叩きつけるつもりだ。
 ヤツはドアの下の隙間にいるので、直接叩くことはできないが、新聞紙によって部屋への進入経路はふさがれることになるのだから、必然的にヤツは廊下側へと逃げ出すはずだ。
 もしヤツがドアの下で、左右どちらかに移動していたら……。
 だとしても、超ローアングルのゴキブリ目線でドアの下の隙間を覗き込む勇気なんてない。
 きっとヤツはまだそこにいる。
 オレは新聞紙で叩いた。
 バシッ!
 うわっ!
 …もう、がっかり。

初出:2009年7月12日

2013年8月26日月曜日

馬鹿をめぐる名言27

ドストエフスキー
月一度なりとも、自分で自分をばかと呼ぶ人が、だれよりいちばん賢いのである。――現代ではめったに聞かれない能力だ! もとはばか者が少なくとも年に一度なりと、自分で自分のことをばかと考えたものである。ところが、きょう日では決して、決して。事態がすっかり混乱してしまったので、もはやばか者と利口者の区別さえ立たなくなった。
 現代では、自分で自分を馬鹿と呼ぶ人は、自分を馬鹿だと思っているわけではなく、自分のことを頭が良いと思っていることを人に知られないように気をつかっているのである。
出典:ミステリーとしても面白く読める「罪と罰」など、古典=退屈という偏見とは無縁の作品を数多く残しているロシアの小説家ドストエフスキー(1821~1881年)の「作家の日記」(『ドストエーフスキイ全集 14』米川正夫訳/河出書房新社)より。話は変わって、かなり以前、現実逃避の一環で「カラマーゾフの兄弟」を読んでいて、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」そっくりの話を見つけた。生きているときに何ひとつ良い行ないをしなかったある意地の悪いお婆さんが死んで火の湖(うみ)に投げ込まれたが、一度だけ貧しい人にネギを1本やったことがあることを守護天使が思い出し、お婆さんにネギを差し伸べて助けようとする。そのネギにつかまったお婆さんは、もう少しで助かるというときに、あとに続いてのぼってくる他の餓鬼たちを蹴落とす。そこでネギがプッツン、という話だった。こんなところに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のルーツがあったんだと思っていたが、念のためにインターネットで調べてみたら、どうやらポール・ケーラス著「因果の小車」が元ネタで、登場人物の名前も「蜘蛛の糸」と一緒だとか。『鈴木大拙全集<第26巻>増補新版』(岩波書店)に載っているみたいだが、渋谷区立図書館にも世田谷区立図書館にも『鈴木大拙全集』の旧版しかなくて確認できなかった。と書いて1年以上放っといたが、やっぱり気になってネットの「東京都公立図書館横断検索」(区立図書館と都立図書館の蔵書がわかるんですよ!)で調べてみたら他の区の図書館にこの本(『鈴木大拙全集<第26巻>増補新版』)があって、渋谷区笹塚図書館経由で取り寄せてもらった。うーん、便利だ。「因果の小車」と題した項には5つほどの短い話が載っていて、肝腎の話のタイトルは……、なんとそのまんま「蜘蛛の糸」。ちなみに「因果の小車」の冒頭の「緒言」には、次のような記述がある。「此書の原文は『カルマ』と題し、在米独逸哲学士ドクトルポール、ケーラス氏の著述に係れり(中略)その初めて氏が管理せる米国哲学雑誌『オップン、コールト』に掲載せらるゝや、忽に露国の偉人トルストイ伯爵の健筆によりて露語に訳出せられ、次で独仏英の重訳続々行はれ、之が為『カルマ』はトルストイ伯の著述なりとの誤聞を伝ふるに至れり」。かくしてドストエフスキーと芥川、トルストイが一本の糸でつながった。というのはあまりにも強引なオチ。
初出:2008年4月28日

2013年8月23日金曜日

ひとり大喜利「ひとり喜利」/♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?

♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
█ お題 ♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
回答
ドラゴンボール
子供かっ!
█ お題 ♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
回答
『"こいつデキる"と思わせる10の方法』
どうせならデキるヤツになれよ!
█ お題 ♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
回答
おいしいアメと苦いお薬
どっか悪いの?
█ お題 ♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
回答
生活力
いいなあ~、こわいものなしだ。
█ お題 ♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
回答
なんかのネジ
そういうのはポケットじゃなく、画鋲とか蛍光灯の豆電球だとかを入れてる引き出しにしまっときなさい。
█ お題 ♪右のポッケにゃ夢がある♪ じゃ、左のポッケには?
回答
♪しゅうりんがん♪
チューインガム! じゃ、また次回。
初出:2010年11月5日

2013年8月21日水曜日

ダジャレにひと言27 高校生にふさわしい服装

お題:ダジャレにひと言足して、なんか悲しいダジャレを作ってください。悲しくなくてもいいですし。
みんなも吉田くんを見習って、光合成にふさわしい服装をするように
先生、ボクは、そんなつもりなんてない。母が知り合いのおじさんからもらってきた学生服が緑がかっていただけなんだ
光が当たると緑っぽく見える生地ってあったな。紫がかった学生服のヤツとかもいたし。
初出:2012年5月29日

2013年8月20日火曜日

東京ドメスティック日常編 1

まえがき

 貧しいながらも楽しい東京ひとり暮らし時代に書いたものです。



満足度100点のゴキブリ駆除剤って…

 オレのアパートだけなのかどうかわからないけれど、1990年代に突入したあたりから、部屋に住み着くゴキブリが数ミリからせいぜい2センチ程度の中・小型ばかりになった。
 部屋の中でデカいゴキブリを見る頻度が減っていった当時は、「小型のゴキブリのほうが実はヤバい。だって、寝ている人の耳の穴に入り込んで卵を産み付け……」というまことしやかな噂話もあって、ちょっとビビったりもした。でも、実際に目の前でデカい黒ゴキブリにカササササササと動き回られるよりまし。朝、目を覚ましとりあえずジュースでも買いに行こうと思って足を通したジーパンからデカい黒ゴキブリが飛び出してくることもなくなったし。

 それから数年後、小型のゴキブリだっていないにこしたことはないということで、ゴキブリ駆除剤を使い始めた。まずはホウ酸ダンゴ系、次の年はヒドラメチルドン配合のコンバット、さらに次の年にはまた別のホウ酸ダンゴ系を試した。どれもけっこう効果はあったのだろうが、満足できなかった。100匹のゴキブリが10匹に減ったら、その駆除剤は優秀といっていいんだろうけど、こっちはゴキブリゼロを期待してるわけだから。
 そうはいっても、100匹のゴキブリより10匹のゴキブリのほうが断然マシなので、毎年、買いに行った日に安売りしているゴキブリ駆除剤を使ってきた。
 ある年ドラッグストアで、「ゴキブリの薬ってどれを使っても、あまり効果ないけど」って言ってみた。特に役に立つ情報がもらえると思ったわけでなく、世間話のつもりで。そしたら、「ひとつの駆除剤が、すべての種類のゴキブリに効果があるというわけではなくて……」だって!

 可処分所得の極端に低いオレだが、ヤケクソになってゴキブリ駆除剤3種を一気に購入してやった。エサを食べたゴキブリが巣に戻って巣のゴキブリまで殺す系2種(ヒドラメチルドンの「コンバット」とフィブロニルの「ブラックキャップ」)と、ホウ酸ダンゴ系1種(どれでも効果は変わりないと思うけどオレの場合は「アースゴキブリホウ酸ダンゴ」)の計3種。2000円近く使った。家計簿をつけるとしたら、この2000円の費目は「贅沢品」になるだろう。
 6畳ひと間のそこらじゅうに3種のゴキブリ駆除剤を設置した結果、満足度は100点! 流しの下の扉を開けたとたん黒い影がササッと動くこともなければ、朝起きて、布団の上でオレに押しつぶされたゴキブリの遺骸を見ることもなくなった。

初出:2009年7月12日

2013年8月19日月曜日

馬鹿をめぐる名言26

フローベール
愚か者 あなたと同じ考えをもたない人のこと。
 そうでも考えないとやってられないことが多い。
出典:小説「ボヴァリー夫人」の作者として知られるフランスの作家フローベール(1821~1880年)の、皮肉と風刺をこめた言葉の定義集『紋切型辞典』(小倉孝誠訳/岩波文庫)より。ちなみに、日本についても定義されていて「日本 この国ではすべてが瀬戸物でできている」とある。このころのヨーロッパ人が、「日本=瀬戸物(陶磁器)」という認識しかもっていなかったことを皮肉ったのか。それならそれでいいが、デカルトに関しては、「デカルト 我思う、故に我あり!」だと。当時すでに「デカルト? ああ、我思う、故に我あり<コギト・エルゴ・スム>でしょ」という定型が出来上がっていたのだろう。100年以上たった今でもこの定型は健在で、デカルトについて10文字で述べよと問われて、「我思う、故に我あり!」以外の答えを出せる人はたぶん少ない。
初出:2008年4月25日

2013年8月15日木曜日

七五調の馬鹿13

近代以降その3
枯野、馬鹿と話しつゞけて
 種田山頭火(たねださんとうか)(1882~1940年)の句を集めた『山頭火大全』(講談社)から拾った俳句。大正2年、自由律俳句の先達、荻原井泉水に師事して山頭火と号し、大正15年、40代なかばで妻と子供を捨て托鉢行脚の旅に出る。托鉢僧の姿はしていても、酒は呑むわ馬鹿騒ぎはするわで顰蹙を買うこともあったようだが、基本的に人に好かれる性質(たち)で、金銭的に援助をする人が常にいたようだ。尾崎放哉と並ぶ自由律俳句の代表的俳人であり、“静”の尾崎放哉に対して、“動”の山頭火と称された。
あらしのあとの馬鹿がさかなうりに来る
「せきをしても一人」などの自由律俳句で知られる尾崎放哉(ほうさい)(1885~1926年)が晩年に詠んだ句。放哉の没後刊行された句集「大空(たいくう)」に収められている。東大法科を卒業した尾崎だが、酒のうえでの失敗も多く、また人づきあいも得意でなかったようだ。山頭火と同じく、荻原井泉水に師事。大正2年に放浪の旅に出て、孤独と貧困の中で句作を続けた。種田山頭火と並ぶ自由律俳句の代表的俳人であり、“動”の山頭火に対して“静”の尾崎放哉と称された。
初出:2008年7月18日

2013年8月14日水曜日

ダジャレにひと言26 生きるべきか死ぬべきか-Yahoo!知恵袋

お題:ダジャレにひと言足して、なんか悲しいダジャレを作ってください。悲しくなくてもいいですし。
質問:いじるべきか死ぬべきかで悩んでいます
質問者が選んだベストアンサー:ちょっといじってみて、イヤがられたらヤメればいいのでは?
 どうでもいいよ。
初出:2012年5月13日

2013年8月13日火曜日

松原荘殺人未遂事件 その9 最終回

脳停止そして結局な日常

 篠田外科は病院としては小規模で、1階が内科と外科の外来で2階が病室(女1、男1)になっていた。
 階段を上がってすぐの病室のネームプレートに「上田」の名前があった。中をのぞくと8台(8床?)くらいベッドがあって、患者たちがベッド上であぐらをかきーの、椅子に腰かけーの、はたまた窓際に立って腰に両手をあてーのと、それぞれの格好をしていた。
 左奥を見ると、唯一、まわりをグルっとカーテンで閉め切ったままのベッドがあった。たぶんバアサンだ。でもオレは、そこに直行するようなギャンブラーではない。
「あのすみません、上田さんは……(うわっ、我ながら、声、小っちゃ)」
 誰に向かってというんじゃなく、病室内へと声をかけた。
 ドアに一番近いベッドの上であぐらをかいている色黒のおばさんがこっちを向いた。
「はあ? お見舞い? 誰?」
 病室のみんながいっせいにこちらを見た。
「あの、上田さん……」
 オレの口から上田という名前が出たとたん、みんなの目がキラキラし出した。ちょっとイヤな感じのキラキラ。
「上田のオバアチャ~ン、お見舞いの人だよ」
 色黒の声はデカかった。
 いい感じのタイミングで、ベッドを覆ったカーテンからバアサンが顔を出した。
 ウワっ! いつもの渋い顔だ。
 でも、オレの顔を見ると、バアサンの顔中のシワというシワがちょっとずつ形を変えて、すげー嬉しそうな表情になった。すぐにカーテンをはねのけてベッドから下り、スリッパを履いている。もう、ぜんぜん歩けるみたいだ。
 よしよしというような感じで顔を小刻みに上下させながらこちらに歩き出したバアサンの顔は、口は笑いをかみ殺している感じだが、目のまわりは喜び大爆発だ。不機嫌な顔をされるのもイヤだけど、こんなに嬉しそうな顔をされたら、それはそれで怖い。
 病室のみんなが口の片方だけで笑顔を作り、バアサンとオレを交互に見る。
「来てくれたんだぁ」
 とバアサンが、オレの腕に軽くさわり、オレを見上げながら言った。さっきまでぎゅっと閉めていた口がちょっと開いて、歯茎が見える。わちゃ~、怖いよ~。
 それからバアサンはまたよしよしというように首を上下に何度か振ってから、まじめな顔になって病室のみんなのほうに向き直った。
 そして、口を開いた。
「みなさん……」
 ちょっと改まった感じ……なんかイヤな、すんげーイヤな予感。
 バアサンは、オレのほうをちょっと見てからまたみんなのほうに向き直った。
 なんだなんだ、何が起きるんだ?
 バアサンが、きっぱりとした口調で言った。

「息子です」

 むむむむむむむ、むすこーーーー!
 左脳の働きが停止した。
 右脳は、傍観モードに入っているのか、目から入る情報を受け入れるのみ。
 こんなときに頼りになるのは脊髄反射だけだ。
 オレは機械的に病室を見わたした。
 そして機械的に、
 オレは、
 オレは、
 頭を深々と下げていた。

前略 オフクロ様
 あなたの息子に新しいおかあさんができました。


 って、なんだよもう。


      ◯     ◯     ◯


 事件から3カ月とちょっとして、バアサンが退院してきた。一瞬にして松原荘は、佐藤(弟)がいないことを除くと、バアサンが刺される前の状態に戻ってしまった。バアサンは、「あのとき見舞いにきてくれてありがとうね」と感謝してくれたが、病室でオレを「息子」と紹介した件については触れなかった。オレも何も言わなかった。さすがに、日立製作所に勤める息子の話はしなくなったが、それもちょっとの間のことだった。
 佐藤(兄)は、特別バツが悪そうな態度を見せることもなく、バアサンと接していた。
 それどころか、1年後くらいには、松原荘は完全に事件前の状態に戻っていた。
 完全に!
 バアサンはオレをつかまえては、ほかの住人の悪口を言う。佐藤(弟)の悪口も言う。その横を佐藤(弟)が通り過ぎていく。
 そうなのです。佐藤(弟)が出所して、事件前と同じように佐藤(兄)の部屋で暮らし始めたのです。
 なんか、みんな、すげーな。

おわり

2013年8月12日月曜日

馬鹿をめぐる名言25

バルベー・ドールヴィイ
馬鹿者に礼儀正しくすることは、彼から遠ざかることである。なんと素晴らしい術ではないか。
 2年近く、友達に会ってない。涼しくなったら東京に遊びに行こうっと。
 人を煙に巻くやり方(うまいやり方が幾つもある)のうちで一番いいのは、自分の意見を誇張して、これとは反対の意見を持っていると思い込んでいる馬鹿者を、怒らせることである。
 この馬鹿者の憤激ほど面白いものはない。
 ひとり暮らし時代はほとんど怒ることがなかったが、実家で暮らし始めたらあっという間に冠状動脈硬化になってしまった。ぜんぜん太ってないのに(175センチ、60キロ)。
名声の利点――名前を持ち運んでもらえるということ。馬鹿者の口によってだが。
 贅沢を言うな。
出典:渋谷区立図書館の資料検索で「キーワード」の項に「箴言」と入力して見つかったフランスの作家、バルベー・ドールヴィイ(1808~1889年)の箴言を収めた『バルベー・ドールヴィイ箴言集 高貴なる人々に贈る言葉』(宮本孝正訳編/審美社)より。初めて聞く名前で、えーと、誰? というのが正直なところだったが、そうも言っていられないので、この本の解説から引用。「彼は最も早い時期にスタンダールとバルザックの真価を見抜いた一人である」「膨大な評論の他に、後世への遺産として、ベルナノスの言によれば完全無欠の、小説群がある」。その完全無欠の小説群の中で、邦訳されているのは次の2作品(時代をさかのぼると他にもいくつかある)。『亡びざるもの』(宮本孝正訳/国書刊行会/2005年11月初版発行)と『悪魔のような女たち』(中条省平訳/ちくま文庫/2005年3月発行。※同作品は、かつて国書刊行会から『魔性の女たち』というタイトルで刊行されている)です。
初出:2008年4月21日

2013年8月9日金曜日

ひとり大喜利「ひとり喜利」/「少年よ、大志を抱け」。今の時代なら何と言う?

クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
█ お題 クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
回答
みなさん、大志を抱かないという選択肢もあることを、どうか忘れないでください。
みんながみんな大志を抱いてたらギスギスしちゃうから。
█ お題 クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
回答
大志を抱きたい人は×の札を、大志を抱きたくない人は○の札を挙げてください。
なんか、コントロールしようとしてないか。
█ お題 クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
回答
少年よ、何か発言しようとする前に、そのセリフをゴニョゴニョと口の中で練習しなくてもいいですよ。
うまく言わなきゃってプレッシャーがあるんだよ。
█ お題 クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
回答
君はときどき、いかにも大志を抱いてますって顔をするよね。
大人が喜ぶかなと思って、気をつかってんだね。
█ お題 クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
回答
少年よ、小沢一郎は不正解。正解は三村マサカズです。
なんの授業?
█ お題 クラークが「少年よ、大志を抱け」と言ったのは1877年。21世紀の少年には、どんな言葉をかけたらいいですか?
回答
少年よ、あれっ、君、モグラに似てるって言われるでしょ。
丸っこくて可愛い少年です。じゃ、また次回。
初出:2011年4月20日

2013年8月7日水曜日

ダジャレにひと言25 左きき-Yahoo!知恵袋

お題:ダジャレにひと言足して、なんか悲しいダジャレを作ってください。悲しくなくてもいいですし。
質問:左ちちでも書道はできますか?
ベストアンサー:実際に左ちちで書道をしている女の人を見たことがあります。若くて、とてもきれいでしたよ
その話、詳しく聞かせてもらおうか。
初出:2012年4月20日

2013年8月6日火曜日

松原荘殺人未遂事件 その8

見舞いのリクエスト

 バアサンが刺された次の日の夕方、刺した佐藤(弟)が井の頭公園で捕まった。警察がわざわざ電話で教えてくれた。バアサンは全治3カ月で、命に別状はまったくないらしい。あばら骨が折れてたっぽかったし、血もふんだんに出ていたのに。廊下に落ちていた赤黒い小さなかたまりは内臓系ではなかったのか。
 夜になって、佐藤(兄)の部屋から思いきりナマった話し声が聞こえてきた。佐藤(兄)と話しているのは、かなりの確率で佐藤(父)。けっこう会話がはずんでいる。
 久しぶりの再会で盛り上がる父と子。ときどき笑い声が上がる。こんなときっつーのは、笑いでもしないと、ヤリきれんのかも。

 1カ月後、バアサンからハガキが届いた。

吉田さんへ
 代田橋の篠田外科病院に、
 入院しています。
 お見舞いにきてください。
             上田

 うわっ! 見舞いなんて苦手だ。何を話せばいいんだ? 礼儀とかに関する実用書を見たって、「ナイフで刺された知人を見舞うときの挨拶」なんて載ってないよ。なんだよ! どうすりゃいいんだよ! 何を話せばいいんだよ! すでに、見舞いに行くっていう前提でシタバタしているし、オレ。
 当然のことながら、田路のところにバアサンからのラブコールはなかった。ハガキを見せると、
「行かないだろ? 見舞いなんか」
 田路はあっさり言う。
「そうなるかな~」
 と言いながら、(ウワ~、田路、すげ、かっこいい)と心の中で田路を応援してしまった。

 1週間後にまたバアサンからハガキが来た。
 オレは、バアサンの吉田コールに屈してしまった。
 退院してから面倒くさいことを言われたりするのがイヤだったんだよ。
 でも、やっぱり行かなきゃよかった……。

つづく

2013年8月5日月曜日

馬鹿をめぐる名言24

フォイエルバッハ
だがこの常識という奴は、実は諸君と同じく下司野郎で、単に諸君の酒飲み仲間にすぎない。諸君はそれを至高の君主として崇めたてまつっているが、実際は馬鹿の王様にすぎないのである。
 馬鹿の大沢? いやいや大沢は馬鹿じゃない。なあ、大沢、あっ、大沢は裸だ!
出典:ドイツの唯物論哲学者フォイエルバッハ(1804~1872年)の『作家と人間 諧謔的・哲学的アフォリズム集』(桝田啓三郎訳/勁草書房)より。
初出:2008年4月14日

2013年8月3日土曜日

標語流行語キャッチフレーズ発掘その10

「防諜」の標語(昭和13年/京都府)
間諜は 汽車に電車に 井戸端に
寸評◎特高も 汽車に電車に 井戸端に
参考資料:『標語・スローガンの事典』(祖田浩一編/東京堂出版/1999年)
初出:2010年6月7日

2013年8月1日木曜日

七五調の馬鹿12

近代以降その2
おろかなり阿呆烏あはうからすの啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 旅と酒と女を愛した自然主義派の歌人、若山牧水(わかやまぼくすい)(1885~1928年)の第二歌集「独り歌へる」(『日本の詩歌 4』伊藤信吉・伊藤整・井上靖・山本健吉編/中央公論社)より。この歌集が刊行されたころ、牧水は胸を病んだり、好きだった女性と別れたり、また別の女性に恋したり、さらに後に妻となる女性と会ったりと、いろいろと忙しかったようだ。ちなみにこの阿呆烏は"あほう"と啼くカラスのことだが、池波正太郎の短編小説「あほうがらす」によると江戸時代には、今でいうポン引き(事務所や専属の女性スタッフを抱えないフリーランスの売春斡旋人)のことを「あほうがらす」と呼んだそうだ。
選者やめぬならと責め来るに返しやる何をぬかすかこの馬鹿野郎
 アララギ派の歌人、土屋文明(つちやぶんめい)(1890~1990年)が昭和37年に詠んだ歌を収めた歌集「続青南集」(『現代短歌大系2』大岡信・塚本邦雄・中井英夫編/三一書房)より。昭和5年に斉藤茂吉から短歌雑誌「アララギ」の編集兼発行人を引き継ぎ、戦争による中断を挟んで昭和20年に「アララギ」を復刊させた土屋文明は、その後も短歌の選者として、また歌人として活躍。この歌を詠んだ当時、土屋文明は70歳を越えていた。それにしても、元気だ。とはいえこの年、心筋梗塞を発病し選者を辞している。
秋三月馬鹿を尽して別れけり
 正岡子規(まさおかしき)(1867~1902年)が明治18年から29年にかけて詠んだ俳句の中から自ら選んで編んだ句集、「寒山楽木(かんざんらくぼく)」(『日本詩人全集2』山本健吉・加藤楸邨編/新潮社)より。この句を詠んだ明治28年の8~10月の足掛け三月(みつき)の間、子規は結核の療養もかねて郷里の松山で過ごした。句に「碌堂と戯る」との前置きがあるところを見ると、松山中学時代からの旧友、柳原極堂(旧号碌堂)と、昔に返ってあれこれ遊んだのだろう(極堂は明治30年に松山で俳誌「ホトトギス」を始めている)。ちなみにこの年の10月、奈良を経て東京に戻るときに詠んだのが「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」なのさ。
馬鹿ほして梅のつぼみもかたきころ
 籾山梓月(もみやましげつ)(1878~1958年)の句集、「冬鶯」(『現代俳句大系 第二巻』富安風生・水原秋櫻子・山本健吉監修/角川書店)より。大正9年に詠まれた俳句で、「深川」という題がついている。深川といえば、アサリを煮た汁をぶっかけて食う「深川丼」でも知られる土地。昔は水産物の加工も盛んに行われていただろう。ということで、この馬鹿は人の馬鹿ではなく、馬鹿貝のこと。馬鹿貝とはなんとも乱暴な名前だが、これでもれっきとした標準和名。「青柳」のほうが通称だ。
初出:2008年6月23日