台風vs安普請
松原荘に住み始めて9か月ほど経過した1978年の秋、大型で強い台風が東京を直撃した。
強い風と雨、さらに強い風と雨、さらにさらに強い風と雨、強い風と雨……が繰り返される。
強い風に吹きつけられると、木枠の窓がガタガタ鳴る。
バケツの水を窓に叩きつけているような強く多量の雨で、ガラスがバチン! ビリビリッという衝撃的な音を立てる。
さらにさらに強い風に吹きつけられると、アパート全体がきしみながら揺れる。
天井からの雨漏りは、雨漏り箇所数・水量ともに過去最大を記録した。
イチゴが入ってたパックを何個がストックしておいたけれど、雨受け容器の数はぜんぜん足りない。水量が最も多い箇所には洗面器、ついで鍋や丼、そしてパックたちを配置し、「ポツ……ポツ……」程度の雨漏り箇所に関しては、いちいち容器は置かない。そんな数、ないから。
天袋(押入れの最上段)の天井からも雨漏りがしている。ここはシカト。畳んだダンボールが突っ込んであるだけだから、濡れたっていい。
濡れては困る布団と、もらい物の白黒テレビ、田舎から持ってきたカセットテープレコーダー(ラジオとCDの付いていないタイプ)、短波放送も聴けるラジオに、ゴミ収集袋をふわっとかける。レコードは、ビニール袋に入った状態でカラーボックスの中に立てているから、たぶん濡れない。レコードプレーヤーにはゴミ収集袋をかぶせなくても大丈夫。レコードプレーヤー、ないから。当時は、レコードとカセットテープを持って友達の家に出かけ、そこで録音してもらうというシステムを採用していた。
一番の脅威は、やはり天井に張り付けたゴミ収集袋だ。
その他の雨漏り箇所にトラブルがないか、新たな雨漏り箇所の発生はないか、窓は所定の位置にあるか、などに気を配りつつも、天井のゴミ収集袋を重点的に監視する。ゴミ収集袋を固定するためのガムテはかなり大げさなことになっており、厚くなったガムテの上から画鋲で補強している箇所もある。
ゴミ収集袋の水はみるみる増えていく。20分に1回は排水しないと、水の重みでどこかが決壊する。ヘタをすると天井が抜けてしまう。
そんなわけでオレは非常にピリピリしていた。なのに、、、
「吉田さ~ん、吉田さ~ん」
1階に住んでいるバアサンがいつものようにオレを呼ぶ。
松原荘に引っ越して以来、1日に最低でも2回、多いときで7、8回は繰り返されてきた吉田コールだ。
松原荘は、階段の下に立った状態では2階が見えない。4段くらい昇ってから直角に右にカーブし、そこから10段ほど昇ると2階、という作りになっている。
ので、バアサンは廊下の下に立ってから、階段にちょっともたれかかりつつ、曲がり角の柱から顔を出して2階を見上げながら「吉田さ~ん」と呼ぶ。
またかよ、くっそー、うるせえなぁと小声で毒づきながら部屋のドアを開け、「何か?」と聞く、あるいは「何か?」という顔をするのがオレの日課であった。一度たりともシカトしたことはなく、ウルセー! と切れたこともなかった。オレ、おとなしいから。
そんなオレが、一度だけバアサンを邪険に扱ったのが、この台風のときだった。
「吉田さ~ん、吉田さ~ん。インスタンメン作ったけど、食べる?」
一応部屋のドアを開け、
「ごめんなさい、今、雨漏りが大変だから、あとで、すみませんけど……」
と、過去に例のない強めの口調で言って部屋の中に戻った。
「吉田さん、吉田さ~ん!」
いつも素直なのにナニをちょっと強気に出てんだよと思ったに違いないバアサンが再びオレを呼んだ瞬間、
パッキ~ン!
うわっ! 窓ガラスが~~~~~~!
「吉田さ~ん、吉田さんてば!」
ああ、うるせ! それどころじゃねえ!
「今、窓ガラスが割れたんだって! 雨が吹き込んでくるんだって! あとにしてって!」
いかにも「怒って大声で話すことには慣れてない人」のぎこちないテンパリ方にイヤ~なものを感じたのか、バアサンはおとなしく引き下がってくれた。
当時のガラスは割れやすかった。ちょっと割れたり、上から下まで長いヒビが入ったりしたぐらいでいちいちガラスを入れ替えていては金がかかってしょうがないので、セロハンテープで補修するのが普通だった。すぐ新しいガラスを入れる人もいたのかもしれないが、そういう人とは付き合いがなかった。
割れたのは、中桟の上側の広い透明ガラス部分ではなく、下側のすりガラス部分(天地のサイズは約30センチ)。もともと斜めに入ったヒビにセロハンテープを貼っていたのだが、ガラスの上端と右端には少し隙間があいていた。で、斜めに入ったヒビの左側は底辺の長い台形。一方、右側は底辺の短い台形なので、ガラスが下端のみで木枠に固定されているということになる。そりゃ強風に抵抗できるわけがない。
なお、割れて部屋の中に落ちたガラスの面積は以下のとおり。
(上底+下底)×高さ÷2
=(40センチ+5センチ)×30センチ÷2
=675平方センチ
平方センチで面積を書いても、まるでピンとこないね~。
つづく