2013年7月23日火曜日

松原荘殺人未遂事件 その6

オレの非日常は警察官のルーティーン

「吉田さーん! 私の部屋のカギ、閉めといてね~!」というバアサンのせりふを聞いた救急隊員も警察関係者も、ちょっと笑っていた。なんつーか、苦笑じゃなかった。普通の、ちょっとした笑い。ぜんぜんニガそうじゃなかった。いろんな事件を見てきた彼らにはバアサンみたいな言動も、ありがちなパターンの一亜種だったりするのかも。
 刃傷沙汰初体験のオレは、笑う気になれなかった。ちょっとすました顔で、バアサンの部屋のドアを閉めた。カギまでは閉められない。オレ、バアサンの部屋のカギ、持ってねーし。
 とりあえず一段落ついたところで、でもげんなりしているところに、刑事らしき男が話を聞きにやってきた。
「第一発見者は、あんた?」
「あ、はい」
 とうなずくと、現場検証が始まるらしく、
「ここはアレだから、ちょっとあっちで話を聞かせてくれない?」
 とアパートの外に連れ出された。後ろをちらっと振り返って見ると、別の刑事が、オレが閉めたばかりのバアサンの部屋のドアを開けていた。そりゃそうだ。
 このときのオレの服装は、下は茶色のスラックスで、上は白いシャツ。Tシャツじゃなく、肌着の白いシャツ。胸から下が赤く濡れている。腕から手の指にかけてベットリ付いた血は乾き始めていて、ところにより黒っぽくなっている。
 はじめの刑事の質問に答え終えると、2人目の刑事がやってきた。同じ質問をするのでオレも同じ答えを返す。違う答えを返したりなんかしたら、「オレの言っていることの信憑性に“?”が付く」→「刑事は、コイツ怪しいなと思う」→「とりあえずご同行願えませんか」→「警察署での厳しい取り調べ」→「オレ、ビビる」→「刑事、ますます怪しんで机を叩く」→「オレ、ますますビビる」→「一転してやさしい言葉で『悪いようにはしないから白状しろ』と言う」→「オレ、『悪いようにならないんなら』と白状っぽいせりふを口にする」→「オレ、逮捕される」。
 バアサンが「佐藤にやられた」って言ってるんだからそんなことになるはずないのに、ちゃんとつじつまの合った答えをしているか不安になる。
 警察にとっては楽勝の事件だからか、アパートの前の道路が交通規制されることはなかった。
 当然、通行人もけっこういて、オレを、まるで犯人を見るような目で見ていく。
「あの人、人殺し?」と言ってオレを指差す子供の口を母親があわてて押さえて小走りに去っていく(これはさすがにウソ)。
 2人の刑事の質問が終わったあとも、いろんな人がオレに質問してきた。「これから出かけるところだったの?」「おばあさんと仲良かったんだぁ」「初めてで大変だと思うけど……あ、初めてじゃない? あはは、初めてだよねぇ」とかどうでもいいことを聞いてきた。要は、オレが手持ち無沙汰にならないようにとの心づかいだったようだ。違うかも。

 そのうち、現場の責任者らしき警官が話しかけてきた。
「ちょっと、北沢署でお話を聞かせてもらってもいいですか? おばあさんも言ってたし、あなたが犯人じゃないことはわかってるんですよ、でもね、今回の状況に一番詳しいあなたに話を聞いて、いちおう書類なんか作らなくちゃならないもんでね。そんなにお手間は取らせませんから」
「あの、この格好でですか?」
「いえいえ、着替えていただいて結構ですよ」
 部屋に戻ったオレはシャツを脱いで流しに入れ、手と腕に付いた血を洗い流した。肌に付いた血は、すぐにきれいに落ちた。ツメの間に入った血はなかなか落ちないので、そのままにした。
 スラックスにも血は付いていたが、血の色が目立たない茶色のスラックスだったので、着替えなかった。上に着るものはどうしようかなと一瞬迷って、もともとその日着るつもりだった開襟シャツを選んだ。
 アパートからパトカーが停まっている場所まで、警官に伴われて50メートルほど歩かなきゃいけなかった。オレの服装は茶色のスラックスに黒の開襟シャツで、髪型がオールバックだった。通行人が「あー、やっぱり」ってな顔で見る。服装のチョイスミスだ。
 生まれて初めてパトカーに乗ったっていう嬉しさなんかはなくて、犯人だと思われたらヤダなってことだけが頭にあった。走り始めたパトカーの中で、オレはオールバックの髪をさかんにかき上げた。手錠をはめられていないところをアピールしたかったのだ。
 事情聴取には30分くらいかかった。退職間近くらいの年齢のスーツ姿のやせた刑事風が質問し、それに対してオレが答えると、原稿用紙みたいなマス目の付いた用紙に書き込んでいく。退職間近の刑事は、主語と述語をきっちりと入れて作文し、2行くらい書いてはそれを読み上げて、これでいいですねと、いちいちオレに確認する。30分かかって話した結果、出来上がった文章は400字詰め原稿用紙2枚弱くらい。当時は、たったそれっぽっち書くのに時間かけすぎじゃね? と思ったが、取材開始から完全原稿UPまで30分てのは、けっこうエラいかも。
 最後に、「これ、少なくて申し訳ないんだけど」と、事情聴取担当者とは別の若い経理刑事が1500円だったか2000円だったかをくれた。「あ、いえいえそんな」と言いながらも、うれしかった。まるっきり予期してない報酬って、額にかかわらず、人の心をつかむ。

つづく

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