ボーイ・ミーツ・バアサン
1978年1月、松原荘に引っ越した日にいったん戻ります。
「あたしは、ほら、ここの部屋に住んでる上田ってもんだけど、あんた、今日引っ越してきたんだ」
「あ、はい。吉田といいます。よろしくお願いします」
「あんた、生まれはどこ?」
「盛岡です」
「ああ、青森の?」
「いえ、岩手です」
このころは出身地を聞かれると「盛岡」と答えていたが、盛岡がどこにあるかなんて誰も気にしてないことを知ってからは、「出身地は岩手です」と言うようになった。
「親は何やってる人?」
「公務員です」
「ウチはね、息子が大阪にいてね。日立製作所の……、日立製作所知ってる?」
「知ってます。大企業ですよね」
「ウフフウ、日立製作所のね、部長」
そこに話を持っていきたかったのか。
「へー、そうなんですか。すごいですね」
「ふふふ~、もう、困っちゃう」
そんなんで困るなよ。
「あんた、越してきたばかりで、わかんないことあるだろうから、何でもあたしに聞いて」
「あ、はい。ありがとうごさいます」
話が一段落ついたかなと思ったオレは、廊下におろしていたカラーボックスを持ち上げ、引っ越し作業に戻ろうとした。
「吉田さん、これこれ、下駄箱はこれね、このツマミをつまんで、こう開ける。わかるね?」
「あ、はい」
持ち上げたカラーボックスを、オレはまた足元に戻した。
「それからね、トイレ。トイレはこれを握って、こう回し、こう引く。ね、開いたでしょ」
ドアノブの扱い方を教わったのは生まれて初めてだ。
「玄関は、ここに手をかけて……ん?……ああ、あんた、これはわかるか、アパートん中、入ってきてるもんね」
普通の引き戸の開け方もわからなかったら、オレ生きていけてねーって。
「えーと、あんたは2階の201号室だよね」
「あ、はい」
「そーだそーだ、あんたの部屋のこっちっかわの隣、204号室ね、佐藤ってのが住んでるんだけど、こいつはよくないねー」
「ああ、はい……」
「ろくにアイサツもしないし、人の言うことも聞かないしさ。青森から出てきて、……あれ、あんたも青森だっけ?」
「いえ、岩手です」
「ああ、そう。じゃあ、よかったじゃない」
「あ、ありがとうございます……」
なんじゃ、この会話?
「……で、あ、そうそう、佐藤! あんたの部屋の隣に佐藤ってのが住んでんだけどさ、こいつが、人の新聞を持ってくんだよ。あたしゃ、年はとってるけど、新聞を隅から隅まで読むからね。あんた、学生だよね?」
「あ、はい」
「だったら、新聞取るんでしょう?」
「いや、わかんないすけど……」
「新聞読まなきゃだめ。東京新聞がいいよ、夕刊はやめにして、朝刊だけ取れば、安いから。えーとね、いくらだったかな、朝刊だけなら千円もしないから、あれ、東京新聞、いくらだったかな……ちょっと待って」
「あの! それは、あとで……あとで!」
上田のバアサンが、新聞の購読料を確認しに部屋に戻りそうな素振りを見せたので、あわてて止めた。
「ああ、そう? 契約書見れば書いてあるはずだけどねえ。あ、領収書でいいか」
「いいです! それは」
「あ、そう。で、えーと、なんだっけな、そうだそうだ、佐藤だよ、人の新聞盗んでんのは。絶対佐藤に違いないよ」
憶測だったんだ。
「佐藤、30歳にもなってまだ結婚してないんだよ。なんの仕事してんのかわかんないけど、あんなんじゃ、嫁に来る人はいないよ、チッ」
バアサンが佐藤さんを相当嫌っていることは、よ~くわかった。
「それで、1階の、あんたの部屋のちょうど真下がね、柴田。こいつもよくないね」
バアサンは、今度は柴田さんの悪口を言い始めた。
オレは本格的にユーウツになってきた。バアサンに嫌われたら、オレもそこいらじゅうで悪口を言いふらされる。もう、やだ。
引っ越しを終えて明大前駅近くの不動産屋さんに報告に行った。
「変なオバアサンいたでしょ。いろいろ言ってくるかもしれないけど、気にしなくていいから。福祉事務所に頼まれて預かってるだけで、別に管理人でもなんでもないから」
えー? いまさらそんなこと言われても。すでにオレ、初戦で戦意喪失してるし、そんな事情があるんだったら、気の毒でもあるし(ウソ)。
不動産屋さんからの帰り、遠目から松原荘に目をやったら、ブロック塀越しに、バアサンの部屋の窓の一部(上のほうだけ)が見えた。新聞紙が積まれていた。カーテンいらずじゃん。
1978年1月、松原荘に引っ越した日にいったん戻ります。
「あたしは、ほら、ここの部屋に住んでる上田ってもんだけど、あんた、今日引っ越してきたんだ」
「あ、はい。吉田といいます。よろしくお願いします」
「あんた、生まれはどこ?」
「盛岡です」
「ああ、青森の?」
「いえ、岩手です」
このころは出身地を聞かれると「盛岡」と答えていたが、盛岡がどこにあるかなんて誰も気にしてないことを知ってからは、「出身地は岩手です」と言うようになった。
「親は何やってる人?」
「公務員です」
「ウチはね、息子が大阪にいてね。日立製作所の……、日立製作所知ってる?」
「知ってます。大企業ですよね」
「ウフフウ、日立製作所のね、部長」
そこに話を持っていきたかったのか。
「へー、そうなんですか。すごいですね」
「ふふふ~、もう、困っちゃう」
そんなんで困るなよ。
「あんた、越してきたばかりで、わかんないことあるだろうから、何でもあたしに聞いて」
「あ、はい。ありがとうごさいます」
話が一段落ついたかなと思ったオレは、廊下におろしていたカラーボックスを持ち上げ、引っ越し作業に戻ろうとした。
「吉田さん、これこれ、下駄箱はこれね、このツマミをつまんで、こう開ける。わかるね?」
「あ、はい」
持ち上げたカラーボックスを、オレはまた足元に戻した。
「それからね、トイレ。トイレはこれを握って、こう回し、こう引く。ね、開いたでしょ」
ドアノブの扱い方を教わったのは生まれて初めてだ。
「玄関は、ここに手をかけて……ん?……ああ、あんた、これはわかるか、アパートん中、入ってきてるもんね」
普通の引き戸の開け方もわからなかったら、オレ生きていけてねーって。
「えーと、あんたは2階の201号室だよね」
「あ、はい」
「そーだそーだ、あんたの部屋のこっちっかわの隣、204号室ね、佐藤ってのが住んでるんだけど、こいつはよくないねー」
「ああ、はい……」
「ろくにアイサツもしないし、人の言うことも聞かないしさ。青森から出てきて、……あれ、あんたも青森だっけ?」
「いえ、岩手です」
「ああ、そう。じゃあ、よかったじゃない」
「あ、ありがとうございます……」
なんじゃ、この会話?
「……で、あ、そうそう、佐藤! あんたの部屋の隣に佐藤ってのが住んでんだけどさ、こいつが、人の新聞を持ってくんだよ。あたしゃ、年はとってるけど、新聞を隅から隅まで読むからね。あんた、学生だよね?」
「あ、はい」
「だったら、新聞取るんでしょう?」
「いや、わかんないすけど……」
「新聞読まなきゃだめ。東京新聞がいいよ、夕刊はやめにして、朝刊だけ取れば、安いから。えーとね、いくらだったかな、朝刊だけなら千円もしないから、あれ、東京新聞、いくらだったかな……ちょっと待って」
「あの! それは、あとで……あとで!」
上田のバアサンが、新聞の購読料を確認しに部屋に戻りそうな素振りを見せたので、あわてて止めた。
「ああ、そう? 契約書見れば書いてあるはずだけどねえ。あ、領収書でいいか」
「いいです! それは」
「あ、そう。で、えーと、なんだっけな、そうだそうだ、佐藤だよ、人の新聞盗んでんのは。絶対佐藤に違いないよ」
憶測だったんだ。
「佐藤、30歳にもなってまだ結婚してないんだよ。なんの仕事してんのかわかんないけど、あんなんじゃ、嫁に来る人はいないよ、チッ」
バアサンが佐藤さんを相当嫌っていることは、よ~くわかった。
「それで、1階の、あんたの部屋のちょうど真下がね、柴田。こいつもよくないね」
バアサンは、今度は柴田さんの悪口を言い始めた。
オレは本格的にユーウツになってきた。バアサンに嫌われたら、オレもそこいらじゅうで悪口を言いふらされる。もう、やだ。
引っ越しを終えて明大前駅近くの不動産屋さんに報告に行った。
「変なオバアサンいたでしょ。いろいろ言ってくるかもしれないけど、気にしなくていいから。福祉事務所に頼まれて預かってるだけで、別に管理人でもなんでもないから」
えー? いまさらそんなこと言われても。すでにオレ、初戦で戦意喪失してるし、そんな事情があるんだったら、気の毒でもあるし(ウソ)。
不動産屋さんからの帰り、遠目から松原荘に目をやったら、ブロック塀越しに、バアサンの部屋の窓の一部(上のほうだけ)が見えた。新聞紙が積まれていた。カーテンいらずじゃん。
つづく
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