こんなときにそれ言うか!
バアサンから少しも目をそらせないまま階段を下りていくと、左胸を抱えるようにした両手から長さ10センチくらいの棒状のものが出ていた。ナイフの柄に違いない。
廊下には黒味がかった赤い色が広がっていた。小さなやせて乾いたバアサンのどこにこんなに血があったんだ? とびっくりするほど大量の血だった。
足がぬるぬるする。
「吉田さん、これ抜いて! これ抜いて!」
バアサンがオレの手をつかんでナイフの柄を握らせた。刃の部分は全部バアサンの胸の中に納まっていたが、骨と皮だけなので、しっかり刺さっている感じがしない。肋骨が折れているのか、ナイフはグラグラ動いた。
オレがナイフから手を離し、バアサンの身体を支えようとすると、
「吉田さん! なんで抜いてくんないのよ!」
バアサンは怒って自分で抜こうとする。でも、すでに筋肉が収縮してナイフの刃にからみついているので、いくら引っこ抜こうとしてもナイフは抜けない。
「上田さん、抜いちゃダメ」
言いながらオレは、バアサンを抱えたままぎくしゃくした感じで片ひざをついた。バアサンは、立ち上がろうとしてオレのあちこちをつかむ。オレの白いシャツも手も腕も血まみれだ。
「上田さん、ナイフは抜けないから! 横になって動かないでいて!」
オレはひざ立ちの状態から腰を下ろし、片方の太ももにバアサンの頭をのせた。
バアサンは「あの野郎、ちくしょう、あの野郎」とうなっていたが、とりあえず横になってくれたので、オレは2階に向かって声を上げた。
「田路! 田路! ちょっと下りてきてー」
すぐにギーという音がした。田路は軽率なやつで、そのぶんレスポンスは速い。
1階まであと数段のところまで階段を下りて来た田路は、いつものヘラヘラ笑顔のまま固まった。
「上田さんがナイフで刺されてる。救急車に電話して! 警察は電話回線が保持されてほかに電話できなくなるから、まず救急車!」
「おう!」
田路は、ハイテンションな声を出してすぐに階段を駆け上がった。
オレの腕の中では、ちょっとの間だけおとなしくしていたバアサンが起き上がろうともがいたり、力が抜けたり、かと思うと白目をむいてプルプルと少し震えたりを繰り返していた。
「上田さん、誰に刺されたの?」
「あの野郎だよ」
「誰?」
「あの野郎だよ」
「誰、誰?」
オレは必死で聞いた。
「あの野郎だよ。佐藤の野郎だよ」
バアサンは眉根にシワを寄せて、憎たらしそうに言った。
バアサンに呼ばれるちょっと前、佐藤さんの部屋のドアが開いて誰かがいっぺん1階まで下り、それから少しして2階のその部屋のドアが開いて、すぐにまた階段を下りて行く音をオレは聞いていた。佐藤(兄)は、日中は仕事に出かけているから、佐藤(弟)だ。
「それより、早くこれ抜いてよ!」
「抜いちゃだめだって!」
「なんで抜いてくんないの! 早く抜いてってば!」
バアサンはオレを責めるように言う。
そこに、興奮を押し殺してマジメな顔を保とうとしているのが丸出しの田路が下りてきた。
「誰にやられたの?」
田路がオレに聞く。
オレが答える必要はなかった。
「佐藤の野郎だよ」
バアサンが言うのを聞いて、オレは思いっきりホッとした。オレが犯人ではないことは田路が知っている。もしバアサンが死んで何も言えなくなっても……。だって、バアサンの未来には、溜まっていく新聞紙しかないけど、オレの未来にはもうちょっとましなものがあるはずだもの。
少しして、救急車だかパトカーだかのサイレンが聞こえてきた。バアサンは、まだけっこう元気だ。ときどき白目をむいて元気にピクピクしている。
アパートの外に出た田路の、「こっちです」と言う声が聞こえ、白衣にヘルメット姿の救急隊員が入ってきた。
救急隊員は、血だらけの床にヒザをついてバアサンの背中に片手を回した。
バアサンは、今度は救急隊員に向かって、
「これ、抜いてよ」
と要求した。
救急隊員は、
「抜けないよ」
と冷静な口調で返した。
ほらやっぱり抜けないじゃん、と思いながら救急隊員にバアサンを託してオレは立ち上がった。血の臭いがすげーなーと感じたが、別に気持ちが悪くなるわけでもなかった。
ストレッチャーに乗せられてもバアサンは相変わらず起き上がろうとしている。救急隊員はちょっと事務的に「寝ててください」と言い、バアサンの体を軽く押さえた。
そこに警官や刑事が何人かやってきて、ひとりがバアサンに、「誰に刺されたの」と尋ねた。
「あの野郎だよ」
「誰、知ってる人?」
「佐藤の野郎だよ」
オレは、ホッとした。完全に無罪だー、キャッホー。ってか無実だし。
傷の状態がだいたい確認できたのか、救急隊員たちがストレッチャーを持ち上げた。バアサンの意識ははっきりしているし、起き上がろうとするくらい元気もあるので、救急隊員たちに切迫した雰囲気はなかった。
そして、ストレッチャーが玄関から出た瞬間、バアサンが渾身の力を込めて上半身を起こし、オレに向かって言った。真顔で言った。
「吉田さーん! 私の部屋のカギ、閉めといてね~!」
今、それ言うか。
バアサンから少しも目をそらせないまま階段を下りていくと、左胸を抱えるようにした両手から長さ10センチくらいの棒状のものが出ていた。ナイフの柄に違いない。
廊下には黒味がかった赤い色が広がっていた。小さなやせて乾いたバアサンのどこにこんなに血があったんだ? とびっくりするほど大量の血だった。
足がぬるぬるする。
「吉田さん、これ抜いて! これ抜いて!」
バアサンがオレの手をつかんでナイフの柄を握らせた。刃の部分は全部バアサンの胸の中に納まっていたが、骨と皮だけなので、しっかり刺さっている感じがしない。肋骨が折れているのか、ナイフはグラグラ動いた。
オレがナイフから手を離し、バアサンの身体を支えようとすると、
「吉田さん! なんで抜いてくんないのよ!」
バアサンは怒って自分で抜こうとする。でも、すでに筋肉が収縮してナイフの刃にからみついているので、いくら引っこ抜こうとしてもナイフは抜けない。
「上田さん、抜いちゃダメ」
言いながらオレは、バアサンを抱えたままぎくしゃくした感じで片ひざをついた。バアサンは、立ち上がろうとしてオレのあちこちをつかむ。オレの白いシャツも手も腕も血まみれだ。
「上田さん、ナイフは抜けないから! 横になって動かないでいて!」
オレはひざ立ちの状態から腰を下ろし、片方の太ももにバアサンの頭をのせた。
バアサンは「あの野郎、ちくしょう、あの野郎」とうなっていたが、とりあえず横になってくれたので、オレは2階に向かって声を上げた。
「田路! 田路! ちょっと下りてきてー」
すぐにギーという音がした。田路は軽率なやつで、そのぶんレスポンスは速い。
1階まであと数段のところまで階段を下りて来た田路は、いつものヘラヘラ笑顔のまま固まった。
「上田さんがナイフで刺されてる。救急車に電話して! 警察は電話回線が保持されてほかに電話できなくなるから、まず救急車!」
「おう!」
田路は、ハイテンションな声を出してすぐに階段を駆け上がった。
オレの腕の中では、ちょっとの間だけおとなしくしていたバアサンが起き上がろうともがいたり、力が抜けたり、かと思うと白目をむいてプルプルと少し震えたりを繰り返していた。
「上田さん、誰に刺されたの?」
「あの野郎だよ」
「誰?」
「あの野郎だよ」
「誰、誰?」
オレは必死で聞いた。
「あの野郎だよ。佐藤の野郎だよ」
バアサンは眉根にシワを寄せて、憎たらしそうに言った。
バアサンに呼ばれるちょっと前、佐藤さんの部屋のドアが開いて誰かがいっぺん1階まで下り、それから少しして2階のその部屋のドアが開いて、すぐにまた階段を下りて行く音をオレは聞いていた。佐藤(兄)は、日中は仕事に出かけているから、佐藤(弟)だ。
「それより、早くこれ抜いてよ!」
「抜いちゃだめだって!」
「なんで抜いてくんないの! 早く抜いてってば!」
バアサンはオレを責めるように言う。
そこに、興奮を押し殺してマジメな顔を保とうとしているのが丸出しの田路が下りてきた。
「誰にやられたの?」
田路がオレに聞く。
オレが答える必要はなかった。
「佐藤の野郎だよ」
バアサンが言うのを聞いて、オレは思いっきりホッとした。オレが犯人ではないことは田路が知っている。もしバアサンが死んで何も言えなくなっても……。だって、バアサンの未来には、溜まっていく新聞紙しかないけど、オレの未来にはもうちょっとましなものがあるはずだもの。
少しして、救急車だかパトカーだかのサイレンが聞こえてきた。バアサンは、まだけっこう元気だ。ときどき白目をむいて元気にピクピクしている。
アパートの外に出た田路の、「こっちです」と言う声が聞こえ、白衣にヘルメット姿の救急隊員が入ってきた。
救急隊員は、血だらけの床にヒザをついてバアサンの背中に片手を回した。
バアサンは、今度は救急隊員に向かって、
「これ、抜いてよ」
と要求した。
救急隊員は、
「抜けないよ」
と冷静な口調で返した。
ほらやっぱり抜けないじゃん、と思いながら救急隊員にバアサンを託してオレは立ち上がった。血の臭いがすげーなーと感じたが、別に気持ちが悪くなるわけでもなかった。
ストレッチャーに乗せられてもバアサンは相変わらず起き上がろうとしている。救急隊員はちょっと事務的に「寝ててください」と言い、バアサンの体を軽く押さえた。
そこに警官や刑事が何人かやってきて、ひとりがバアサンに、「誰に刺されたの」と尋ねた。
「あの野郎だよ」
「誰、知ってる人?」
「佐藤の野郎だよ」
オレは、ホッとした。完全に無罪だー、キャッホー。ってか無実だし。
傷の状態がだいたい確認できたのか、救急隊員たちがストレッチャーを持ち上げた。バアサンの意識ははっきりしているし、起き上がろうとするくらい元気もあるので、救急隊員たちに切迫した雰囲気はなかった。
そして、ストレッチャーが玄関から出た瞬間、バアサンが渾身の力を込めて上半身を起こし、オレに向かって言った。真顔で言った。
「吉田さーん! 私の部屋のカギ、閉めといてね~!」
今、それ言うか。
つづく
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