2013年3月12日火曜日

脱腸手術入院マニュアル その3

関係各方面への脱腸手術宣言

 アパートに帰り、病院で渡された「入院のしおり」に目を通すと、「各ベッドにカード式テレビが備えてあります」とある。よかった。サッカーのワールドカップ(フランス大会)が見られる。
 夜になって、田舎に電話をした。
「もしもし」
 オフクロが出た。
「もしもし、オレ」
「ああ、徹(実名)。なに、どうしたの。お金なぐなった?」
 金はいつもない。それはそれとして、3年に1度くらいしかオレからは電話をしないので、オフクロはちょっとうれしそうだ。
「あのさ、今度脱腸の手術するんだよ」
「脱腸? あっはっはー、このあいだMG(姪っ子)もやったばっかりだ」
「へえ、そうなんだ」
「そうなのさ。なんだが、ちゃっちゃっちゃって、1週間もしないうちに退院してきたっけ」
「手術、簡単みたいだもんね」
「そうだったよ」
 この1、2年前に、アニキが脳になんかができて目がよく見えなくなったりあれやこれやで、けっこう大変な手術をしていた。手術後も、運動能力が完全に復活したわけではないらしいけど、とりあえず日常生活にはそれほど支障がないようだ。そんなわけで吉田家では、脱腸の手術はなんてことない。
「それでさ、同意書に家族のハンコを押してもらわねばダメなんだって。送るからハンコ押して送り返して」
「何? ハンコ押せばいいの? わがった。……お金はあるの?」
「うん。……なんとかなるんじゃねー」
「ふーん。ご飯食べてるの? ワカメとかソバとか送るか?」
「すぐには送らなくていいよ。退院したらまた電話するがら」
「うん、電話しろ」
 それから数分、オフクロは、アニキがどうだの近所の誰それがなんだとかって話をしたあと、聞いてきた。
「どれぐらいお金かかるの? 20万? 30万?」
「手術代と入院費用合わせて10万円くらいだって」
「ああ、そういえばMG(姪)のときもそれぐらいだったっけかな」
「んじゃ、同意書送るから、ハンコよろしく。じゃーね」
「はいはい、じゃーね」
 たぶん、オフクロは金を送ってくる気だ。


 手術したあとは当分風呂に入れないだろうと思って、髪を短くしに散髪屋さんに行った。
「いつも9ミリのバリカンだっけ」
「そうでしたっけね」
「じゃあ、今回は7ミリのバリカンで、いつもより短めにしようかな」
「すぐ、伸びますからね」
「うん……。ちょっと、短くしたい事情もあってさ」
 金が10万円もかかるのはヤだったけど、手術することをちょっと自慢したくて話をそっちのほうに持っていこうとした。普通なら、こんな言い方されたら、何があったか聞きたいよねぇ。でも……。
「そうなんですか」
 だってさ。
「うん。風呂にも入れなくなるだろうから」
「短くすると、顔と一緒に洗えますから、入らなくていいかも、あっはっは。前髪はどうします?」
 確かに前髪は大事だ。でも、風呂に入れない事情は聞きたくないわけ?
「前と上は、立つか立たないかくらいで」
「サイドと後ろは、上まで刈り上げちゃっていいですよね」
「うん」
 理容美容業界には、客のプライバシーをあれこれ聞いちゃいけないという決まりでもあるのか、話にのってこない。たとえば十円パゲができていても、客に聞かれない限り、「ここにハゲがある」って言っちゃいけないって、以前おばちゃんは言ってた。かつては町の情報収集発信基地みたいな役割を果たした時代もあったっていうけど、今はなんかいろいろと気をつかわなきゃいけないみたいだ。
「今度、手術するんだよね。それで、風呂に入れなくなるだろうから、短くしようかなと思ってさ」
 しょうがないので、自分から話した。
「どっか悪いの? 大変ですねぇ」
「悪いっていうか別に病気じゃないんだよね。脱腸の手術」
「ああ、今はあんまり脱腸って言わないんじゃないですか。ヘルニアでしょう」
「うん。鼠径ヘルニアだって。でもヘルニアって言われてわかる?」
「わかりますよ」
「そうなんだ。へー」
「うちのお客さんでも、けっこう多いですよ、ヘルニアの手術した人。それに病気じゃないって言うけど、最近も、大変な手術になったっていうお客さんいましたよ。バイクかなんかに乗ってて軽い事故起こしてね、別にケガをするほどの事故じゃなかったらしいんだけど、ちょうどヘルニアで腸が出ているところに当たったんだって」
 まあ、これも客のプライバシーだけど、70歳くらいのジイさんの話だし、ジイさんが自分から話したネタだからいいか。……ネタって。
「へえ、そうなんだ」
「うーん、それで腸が破れただかなんだかで死ぬところだったって言ってましたよ。何が起こるかわかんないですからね、早く手術したほうがいいですよ」
「うん」
 このあとは、いつものように世間話になった。散髪屋のおばちゃんとは共通の話題が多い。なんやかんや話しているうちに、髪はさっぱり仕上がった。
「もみあげは、どうします? 途中でカットして、境目をきっちりつけるか……」
「うーん」
「それか、えーと、……先のほうをシュってするか」
「シュって?」
「なんていうか、こう、シュって」
「ふふ、んじゃあ、シュってして」
 ってなわけで、オレのもみあげはシュっとなった。


 月末は留守にすることになるので、前もって家賃を払っとこう。大家さんの家はアパートの隣にあるので、往復30秒もかからない。
「あら、吉田さんどうしました?」
 月末の支払日以外にオレが訪ねることはないので、大家さんの奥さんは意外そうな顔をしている。
「ちょっと入院することになったんで、早めに家賃をお支払いしとこうと思いまして」
「入院を? どうしました?」
「あの……だっち、……へ、ヘルニアの手術するんで」
「ヘルニア?」
「はい」
「……」
「……」
「あーっ! ダッチョね」
 なんか、恥ずかしい。はじめっから脱腸って言えばよかった。

つづく

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